幼き日の恐怖

 子供の頃はわかっていなかったことが年齢を重ねるにつれてわかるようになることがある。それは他人の行動であったり自分の行動であったりするけれど、今日はある自分の行動とその原因について書きたい。

 

 私の人生の中で最も幸福だった時間は女子校でのびのびと過ごしたあの6年間であった。中高を女子校にしたことを後悔したことはないし、小学生の時の自分の選択は間違ってなど決してない。しかしそうは言ってもその6年を共学で過ごしていたら今ごろ彼氏がいたんじゃないかと考えてしまうのもまた現実である。まあ他に原因があることは重々承知してはいるんだけど、そう考えてしまう自分もやっぱりどこかにいるのだよね。これは仕方ない。

 

 でもそこで私は思った。そもそも私はどうして女子校を選んだのだっけ?と。

 

 思い返せば私は中学受験の際にお試し受験と言われる一月の入試以外、すべて女子校を受験している。何よりも小学生の私は絶対に女子校に行きたかったのだ。親にもそう宣言していた記憶がある。

 

 何故そこまで女子校にこだわっていたのか。

 

その頃男子にオタク趣味のことでからかわれていたからか?その前に好きな人がどうとかで泣かされていたからか?気の強さでガキ大将に言い返したら黒板消しで顔を叩かれたからか?

 そういった細かい要因はもちろんあっただろう。今思い返しても辛いものばかりで嫌な気持ちになる。でもそれじゃあないなと思う。そもそもその時点で私は男子たちに対して過剰な意識をしていた気がするのだ。

 

そこまで考えた時、私の中で忘れかけていた最も忌々しい記憶が蘇った。それは思い出したくもなかった幼き日の恐怖だった。

 

小学3、4年生の頃だったと思う。私はちょうどその頃読書にハマりだし近所の図書館に友人と通っていた。小さい館内で情報検索のパソコンが2台だけ存在していて、ひとつは座るタイプだがもうひとつは立って使うタイプだった。私と友人はふたりで画面を覗きながら借りたい本を一緒に探していた。ふと気づくと左側のスカートを引っ張られている気がした。何だろうと思いそちらを向くと、坊主頭の大人の男がしゃがんで私のスカートを捲り、下から覗いていたのである。私はとても驚いたが、そこで声をあげることが出来なかった。スカートの中を見られて恥ずかしかったし、それを司書の人に言葉にして伝えることも恥ずかしかった。そのまま無言でその場を離れるしかなかったのだ。離れたらもうしてこないと思っていたが、その後も館内で後をつけられたり棚越しにジッと見られたりしたので、私はまだ居たがる友達を無理やり引っ張って図書館から逃げ帰ったのだった。

 

 このことは殆ど誰にも言ったことがない。もちろん親にも言っていない。犯人はその後も図書館に行く度に見かけたので、私はその図書館にはあまり近寄らないようになった。街で坊主の人をみると思い出して怖くなった。直後は他人が自分の後ろに立つのが怖くて、お母さんとの買い物でずいぶん挙動不審になり怪しまれた。それからスカートも履かなくなった。

 

 この事件のことは小学校6年になる頃にはもう忘れていた気がする。その頃にはスカートもはいていたし、必要があれば図書館にも行っていた。ただ近くの図書館に抵抗があったので、隣町の図書館に主に通ってはいたのだが。

 

 いまでも坊主頭が好きではないし近所の図書館にはなるべく行きたくない。それに知らない男の人に対して必要以上に身構えるところがある。その身構えは中高が女子しかいなかったための不慣れによるものと考えていたけれど、たぶんそれだけじゃなかったのだ。

 

これは、トラウマなのかもしれない。

2017年の振り返り

去年のブログで立てた目標を一個ずつ検証します。

 

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①やらない後悔をしない

これは去年に引き続きの目標! 去年これを目標にしたことで満足のいく1年に出来たので、今年もこれは継続したいな。特に就活があるから、やれるだけのことをやりたい気持ちがあります。あと私は基本的に臆病だから何か新しいことをするのに躊躇う癖があるので、これを念頭におきたい。

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これはどうだろう。なかなか難しい目標を立てたなあ去年の私。就活のことをあげているけど、最近そのことでブルーになっているのでこれは就職してみないとわからない。

ここで文学をやめて人生それでいいのかってずっと考えている。

 

 

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②攻撃的にならない

これは結構何に対してもで、特に他人に対してっていうのを本当に、気をつけたい。他人に悪いからとかいう偽善者めいたことではなくて、他人に対して攻撃的な気持ちになって口だけで悪意をはいてしまうと後で自分が後悔するのでね。ユーリon ICEのユリオがアガペーに気づいた瞬間みたいに、ストンと落ち着きたいです。つまりは穏やかに過ごしたいってことになるのかな?

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これは無理でした。今年も色々怒りに燃えていました。それで自己嫌悪のループ。

 

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 ③旅行に行く

これは就活と大学があるからだいぶ厳しいかもしれないけども。でもこの前に弾丸日帰りで京都行った時、意外とすぐ旅行できちゃうなってことがわかったので、またいっぱい色々行きたいな!とりあえず今行きたいと思ってる土地は金沢です。あと海外ならインドネシア行きたいな〜〜〜!せめて金沢は行こうと思います。

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金沢に行きました。夏も伊勢参りに行ったし、わりと満足している。

 

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④新しいことをはじめる

まだ全然何を始めるか検討もついてないんだけど、できたら日本伝統文化に関係あることがいいなと思ってる。就職しても変わらない何かが欲しいなということです。

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残念ながら何もしていません。いい加減着付け教室とか行きたいんだけどね。 

 

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⑤思いっきり勉強する

わりとこれが1番大事だと思う。いよいよ今年は4年生になっちゃって、高校生の時ずっとやりたかった文学の勉強が出来るのもあと1年ないと思うと悲しいなあ。高校生だった私も、社会人になった未来の私も満足するぐらい、最後にちゃんと勉強したいと思います。幸い先生に課題を貰っていることだし、まずはそれを頑張ります。

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これはこの時には考えついてないぐらいたくさん勉強しました。本当にこの時点の私舐めてんなあってぐらいめちゃくちゃ勉強した。でもそれが本当に楽しかった!自分でも驚くぐらい勉強が楽しくて仕方なかった。このままずっとやりたいなって思ったぐらい、楽しい一年をすごせました。まだあと数ヶ月あるから、全力で駆け抜けたいと思う。

 

 

 

今年は就職先が決まったり留年が決まったりと将来について、これからについてたくさん考えた1年だったかな。ちゃんと考えられたのかなって今もずっと悩んでいるけど。

あとこの1年、先生について思いっきり勉強出来たのは一生の財産だと思う。本当はまだまだ勉強し足りないし、もっとやれば見えてくるものだってあることも分かったから、やりたいなって思っているけど。私がいるのは文学のぶの字に手をかけたところだよなあ。卒論は期限ギリギリすぎて納得出来たかと言われると微妙なところもあるけど、あんなに頑張ったことって剣道の段審査依頼じゃないかと思うので、そこまで頑張れたことを嬉しく思います。

 

 

今年1年はなんかまさに駆け抜けた!という感じで毎日が一瞬で過ぎてしまったけど、私は最後の1年を大切に出来たのかしら。できたと思いたいなあ。

 

ギリギリセーフ!良いお年を!

寝れない

寝れないので2ヶ月ぶりにブログを書こうと思う。

 

いや今気づいたけど2ヶ月ぶりって。

もっと書いている気になっていた。

 

いつもTwitterで済ませてるからブログをあまり書かないけど、色色書きたいことがあったような気がする。というか実際、書きかけの記事が下書きにたくさんある。長い文章を書くって中々時間のかかる作業なんだよなあ。

 

だからライブのレポとか書こうにもその熱量の維持が難しくてなかなか書けない。半分まで書いたけどその先続かないなんてよくある。

昔、高校生くらいの時は結構詳細なライブレポを書いたりしてたなあ。私のライブレポが好きだと言ってくれたのは誰だったっけ?お元気ですか。私はまあぼちぼち生きてます。

 

この前の石川旅行のことも記録も兼ねて言語化しようとは思っているけど、言葉にした瞬間にあの楽しさは消えてしまう気がしてね。というか、2年前のロンドンもそうだけど旅行のこと書くのわりと大変だ。でも書いておかないと忘れるなあというのを今日実感した。

 

私は金沢行ったのこの前が人生初だと思っていたら、実は小学生で行っていたらしい。全く覚えていない。それを思い出すためにアルバムの写真を探したんだけど、出てくる小学生の頃の自分が無邪気すぎてビックリした。カメラに向かってピースをしてるのは自分が愛されているのが当たり前とでも思ってるかのような明るさを持つ少女だった。

 

でもそれもその筈なのかもしれない。私はあれから本当に色々なことを経験した。

中学受験、中高での彼是、大学受験、就職活動etc..

私の記憶の中では、幼い頃はひたすら両親とかから可愛い可愛いと言われていた気がする。可愛いと言われて愛されている子供の自信は最強だよね。そこから外に出た時に散々ブスと言われてきたのでこの様なひねくれに育ってしまったけど。

でも私の性格は中高生までは何かと一貫してた気がする。大学生になって、アイデンティティの崩壊が起きてからその性格が全くわからなくなってしまったけど、もっと自分が好きだった気がする。いや、そんなこともないんだろうか?折角ずっとブログとかTwitterをやっていたのに、ことある事に消してしまうので余計に自分が分からないんだよなあ。

 

SNSを消すのはイコール過去の消去に伴う自己の消去だと思う。というか、自分の存在を自分で消してしまいたい時にいつも消してしまう。

こういう、死にたがりとか消えたがりの性格はいつまで続くんだろう。今までも性格がこんなに変わってきているし、今後ふつうに生きられたらまだ人生が60年もあって、まあ絶望するんだけども、それに耐えられるくらい図太くなるのかしら。自己肯定感を少しでも持てるのかしら。

 

そろそろ眠くなってきたので寝よう。

今年の振り返りと来年の目標を年内に更新したいな

 

安藤忠雄展

 小雨の中、六本木の国立新美術館安藤忠雄展を見に行った。

 

 乃木坂駅に着いたのは午後3時半。本当は朝に行こうかとか、夕方の方が光の教会に光が刺すらしいとか、色々考えていたけど時間の都合でそうなった。

 

目当ては光の教会実寸大再現。正直私は建築に明るくないし、安藤忠雄展を見に行く予定も1週間前、つまりTwitterでその光の教会の再現の写真を見るその瞬間まではなかった。

 

そしてこれが私の撮った光の教会

 

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前にいるポケモンのバッグがちょっとシュールだなと思う。

 

安藤忠雄はシンプルな造形に光や風、水などの自然が映し出されることを理想の建築としているらしい。光の教会は中央の十字架部分にも右側の隙間にもガラスすらなく、屋内にいながら光はもちろん、風も感じられる。建設当時は信者からの反対でガラスがあったそうで、「いつか取ってやると思った」とイヤホンガイドで安藤忠雄は言っていた。

 

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こちらはポストカードを撮ったものだけど、水の教会。

 

私はこれらを見て、美しいとかそういう感想の前に、その十字架の前に跪きたくなった。祈りを捧げたくなった。私はキリスト教信者ではないけれど、これらの教会にはたしかにそういう力があるんだと思う。

 

神というものが人智を越えた存在であると定義するならば、自然を取り入れた安藤忠雄の教会に神を感じるのは理屈の通ったことだ。

 

人間は自然をなんとか味方にしようとしてきて、それでも思い通りになんてならないから畏怖を抱いて、神(の意志)だとか、そういうものに自然を変換して受け入れてきたんじゃないか?

 

つまり、神とは自然だったのか。

 

こんなことを言ったら夜道で後ろから刺されそうだけど、私は 光の教会でそんなことを考えた。

 

 

 

安藤忠雄の建築は、教会との親和性が高い。それは、安藤忠雄の建築に対する思想が宗教の根源と繋がっているからなのだと思う。私たちは安藤忠雄の建築で、改めて自然の持つ崇高さを体感せしめられるのだ。それは天気を予報できるようになった私たち人間が日常で忘れ去っている感覚である。

 

 

 

おしまい。

 

 

チョウとハナ

 世の中の人には2つのタイプがあって、それが「チョウ」と「ハナ」。つまり愛されるために自分から探しにいかなければならないチョウとただ在るだけで愛される才能があるハナだ。

 

私は完全にチョウのタイプなので愛されるために愛を発信しなければならなかった。

 

中学の時に、いまでは魂の片割れのような存在の友人と壮絶に喧嘩していた。周りを巻き込み、部内で派閥争いにもなったほどだ。

 

しかしながらそうやって喧嘩をしていても、私は彼女のことが好きだった。口を聞かなくてもいつかまた仲良くなれると信じきっていた。彼女は私と同じチョウだから、多少の衝突は避けられないのだと自分に言い聞かせていた。

 

チョウとハナは互いに惹かれあって一度結ばれればその絆は確固たるものになるだろう。しかしながらチョウとハナはそれぞれの立場の違いによって真に理解し合えることはない。

 

一方でチョウとチョウはそもそも惹かれ合うことなど無いに等しい。しかしながらもしその壁を越えられることが出来たなら、真に理解し合えるのはチョウとチョウなのかもしれない。

 

眠れない夜

眠れないことに焦燥感を抱くことはよくあると思う。翌日の予定を考えると寝なきゃいけないのにと無駄に焦る。焦るから眠れないのに。

 

 大学4年の夏休みは、その眠れない夜と同じような焦りを毎日感じている。 学生の終わりは唐突だ。私の学生としての人生は、果たしてこれで良かったのだろうか。やり残したことはないか?やるべきことはないか。社会に出ることへの不安が日に日に募る。

 

学生は贅沢だ。ぐうたら過ごしても問題のない日が続き、勉強は義務ではあるが強制ではない。やりたいと思ったことは都合が付けば大体のことが出来る。

 

社会へ出るとなって、改めて文学の贅沢さを感じる。もうあと4か月後には卒業論文を提出しているなんて、一体どうしたら想像できるのだろう。言葉は並べられても、それが実感出来ない。

 

本当に馬鹿な考えだと思うが、私のこれまでの人生は文学ありきだった。文学のない日常が、私にはわからない。誰かの紡いだ言葉の塊が文学だとして、私はそこから情報を読み取り価値を付けることをしてきた。その能力が他に生かせたらいいのに、これはやらなくなった途端に衰える種類のものだ。

 

もっと本を読めるうちに読まなきゃだとか、知識を蓄えなきゃという、焦りばかりで努力をしない。そうして半年がすぎて、私はいつの間にか社会人になって、もう文学とは無縁の生活をするのだろう。

 

そうして荒んだ人間になるのかもしれない。そうなったらどうしよう?

 

つまり私は文学至上主義すぎて、それに関わりのなくなる自分に耐えられないのかもしれない。

 

 

喫煙所の屈強な男達

最近、煙草がぶっ叩かれている。
2020年に向けての受動喫煙防止法云々カンヌン……でこの論争がTwitter等でも散見されているのだが、正直喫煙者としては耳が痛い。

私自身は丁度3年前の今の時期に煙草を吸い始めたのだが、しばらくは周囲にも隠していたし、本数も多くはない(むしろ少ない)。いつでもやめようと思えばやめられるという甘えで3年も喫煙に甘んじているのだが、最近愈々やめられない気がしてきた。

そんな私の最近の悩みは専ら喫煙所についてである。

高校生のときからバンドが好きな私は、バンドマンたちが煙草をくゆらせているのをよく見ていたし、バンドが好きな友人たちが煙草をのんでいるのもよく見てきた。しかしそのような人たち、つまりバンドというアンダーグラウンドなものを愛する人たちというのは大抵がガリガリひよっこモヤシさんであった。
中にはちょっとイカツイような人もいたが、それでも同じ様な感性を持っているからか、あまり苦手意識を持ったことがない。

ところがひとたび場所を変えて大学の喫煙所に行くと、ムキムキマッチョの威圧感たっぷりな殿方ばかりがいる。これは由々しき事態である。
まあすべては私がそのような湘南の海がお似合いになる人たちのことを苦手に思っているせいなのであるが、私の親愛なるライブハウスで踊り狂っていた皆さまは一体全体どこに行ったんだ?

私は最近サブカルを抜け出して、なるべくシンプルな服を着て擬態を試みているのだが、そういう女は喫煙所ではまず見ない。喫煙者に来る女は80%の確立でガールズバーかキャバで働いているような女ばかりである。そういうわけで、結構稀有な目で見られることが多い。
ただでさえ肩周りの筋肉が発達し胸筋の主張が激しい男が苦手なのに、私が喫煙所に行くとチラと見られるというのは、何とも地味で耐え忍ぶのが苦痛なものである。

しかし、恐らく私が見られる気がしているということは、私もまた彼らを見ているのだろう。見ることは見られることだ。

喫煙が社会的に追いやられる昨今、喫煙者の間には共犯者めいた連帯感がある。半袖短パンでトートバッグを持っているメンズたちよ、頼むからあまり群れてくれるな。