萩尾望都『トーマの心臓』

 昔から漫画と小説が好きだ。小説との出会いは小学校3年生の夏休みに出会った「パスワードシリーズ」(松原秀行/青い鳥文庫)だとはっきり覚えているが、漫画に関しては覚えていない。と、いうのも私が生まれた時から我が家には漫画が溢れかえっていたのだ。母が大の漫画好きなのである。私の記憶にないぐらい幼少の頃母の大切な『つらいぜ!ボクちゃん』(高橋亮子/小学館)に塗り絵をしてしまったのは未だに恨まれ続けている我が家の許されることのない大罪のひとつだ。そういうわけで、私は幼い頃から少女漫画に親しみ、小学校高学年からは少年漫画にも手を出し、いまや立派なオタクと化した。

 そんな私が心の底から出会って良かったと思い、もっと多くの人に読んで欲しいと願うのが萩尾望都先生の『トーマの心臓』である。
 
【あらすじ】
「雪は水音をたててくつの下でとけた」「まぢかに春」、十三歳のトーマ・ヴェルナーが死んだ。その知らせを聞いた、ユリスモールの元に1通の手紙が届く。それはトーマからの遺書だった。 「ユリスモールへ さいごにこれがぼくの愛 これがぼくの心臓の音 きみにはわかっているはず」 友人、オスカーに支えられながらトーマの影を振り払おうとするユリスモールの前にトーマにそっくりな転校生、エーリク・フリューリンクが現れるが……
 なぜ、トーマは死んだのか。なぜ、ユリスモールはトーマの愛を受け入れられないのか。ドイツのギムナジウムを舞台に少年たちの愛と成長を描く。
 
 『トーマの心臓』は週刊少女コミックにて1974年5月5日号から12月22日号に連載され、現在小学館文庫から全一巻まとめられている。メディアミックス展開として森博嗣氏による小説版(舞台が戦前の日本に変更されている)や、劇団Studio Lifeによる舞台版がある。また、前日譚に「訪問者」という主人公ユリスモールの友人のオスカー・ライザーの物語や、後日譚に「湖畔にて」というエーリクの物語があるのでハマった人は是非読んで欲しい。ちなみにこのふたつは2016年5月28日発売の月刊flowers(現在増刷中)の別冊ふろくとして収録されている。『訪問者』は小学館文庫にて文庫化されているが「湖畔にて」は『萩尾望都パーフェクトセレクション2 トーマの心臓Ⅱ』にしか収録されておらず、手に入りづらいので月刊flowersが最も手に入りやすいかもしれない。
 
 さて、あらすじの最後において私は「少年たちの愛」と書いた。これをみて「BLか、苦手なんだよな」と思った方もいると思う。実際『トーマの心臓』と『風と木の詩』(竹宮惠子/白泉社文庫)をBLの原型としている意見も多く見られるし、私も異論はない。しかし現代のBLと呼ばれるジャンルとこの『トーマの心臓』はまったくの別物であるということを私は声を大にして言いたい。
 たとえばこの場面
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(『トーマの心臓』p344/萩尾望都/小学館文庫/1995)

 おわかり頂けるだろうか。彼ら少年たちの愛は万物を愛するものであり、現在のBLと呼ばれるジャンルとは大きく違う。「さびしさゆえに人は愛さずにいられない」これこそが『トーマの心臓』における愛の正体であると思う。
 
 そして萩尾望都先生はこの「愛」という人間の内面をふきだしの外のセリフを用いて表している。つまり心の中のセリフやモノローグ(独白)、他者のセリフの思い返しなどをふきだしの外を用いて重ねて表現することで人間の内面を奥深く描いているのだ。
例えばこの場面
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この場面でユリスモールが実際に発している言葉は「あ・あ!!」からはじまる「あ」であり「それではきみは----」からはじまるトーマのセリフはユリスモールの回想、「トーマ・ヴェルナー  あっちへ いってくれ」からはじまるセリフはユリスモールの心の声である。つまりこのページは3層のセリフが重なっている。人間の複雑な心理状況をふきだしの外を使ってより丁寧に描いているのだ。現代の漫画において何も珍しくはないこのふきだしの外の技術は萩尾望都ら1970年代の漫画家において確立された。萩尾望都先生の偉大さがわかって頂けただろうか。
 
 『トーマの心臓』は性として未分化の「少年」たちを通して、性に囚われない人間の根源的な愛を描いた漫画史に残る大傑作である。BLはちょっと、と思う方も騙されたと思って是非読んで欲しい。
 
 
【参考文献】
『教養としての<まんが・アニメ>』大塚英志+ササキバラ・ゴウ/講談社現代新書/2001