雑文

 蹲踞から立ち上がって、中段の構えをとるときの、「スッ」とする感じが忘れられない。試合の時も地稽古の時もただの練習の時だって、構えたらもう目の前の相手に技を決めることしか考えていなかった。その日帰ってきたテストの成績も友人との諍いも明日に迫る部活動の雑務の書類を何一つ書いていないことも、全てを意識から外してただひたすらに目の前の相手に向かう。私の剣道とはそういうものだった。

 「面をつけたら私は別人になる」という、バカみたいな妄想をいつもしていた。別人みたいに無慈悲に、ただ強くなりたかった。自分の重い身体を捨てて、別のなにかになりたかった。

 いまでも思い出す試合がひとつある。それは中学の時の地区大会個人戦。相手に1本取られて絶体絶命大ピンチの状況で、何故か負ける気がしていなかった私。練習の時にいつもやっていた、踏み込んで相手の竹刀を払い面を打たせて胴を打つ、払い胴を思い切り決めて1本。相手の竹刀が上がるスローモーションな瞬間と考える前に動いた自分の身体を鮮明に覚えている。そしてその1本を決めたあとの、いまでは親友となった相棒の喜びの声。相手はそれから萎縮、私がもう1本あっさり決めて勝利。あの時から、私はずっとあの瞬間を追いかけている。

 もう剣道をやめて4年目になった。あれから殆ど竹刀すら握っていない。何度かまたやろうとしてやめているし、アトピー持ちの私は剣道に向いていないことも理解している。なのにそれでもまだ夢に見る。竹刀を構えるあの瞬間を夢に見る。気持ちをひとつのことに絞るあの感覚は、何モノにも変え難く、ただひたすらそれを追いかけている。