安藤忠雄展

 小雨の中、六本木の国立新美術館安藤忠雄展を見に行った。

 

 乃木坂駅に着いたのは午後3時半。本当は朝に行こうかとか、夕方の方が光の教会に光が刺すらしいとか、色々考えていたけど時間の都合でそうなった。

 

目当ては光の教会実寸大再現。正直私は建築に明るくないし、安藤忠雄展を見に行く予定も1週間前、つまりTwitterでその光の教会の再現の写真を見るその瞬間まではなかった。

 

そしてこれが私の撮った光の教会

 

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前にいるポケモンのバッグがちょっとシュールだなと思う。

 

安藤忠雄はシンプルな造形に光や風、水などの自然が映し出されることを理想の建築としているらしい。光の教会は中央の十字架部分にも右側の隙間にもガラスすらなく、屋内にいながら光はもちろん、風も感じられる。建設当時は信者からの反対でガラスがあったそうで、「いつか取ってやると思った」とイヤホンガイドで安藤忠雄は言っていた。

 

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こちらはポストカードを撮ったものだけど、水の教会。

 

私はこれらを見て、美しいとかそういう感想の前に、その十字架の前に跪きたくなった。祈りを捧げたくなった。私はキリスト教信者ではないけれど、これらの教会にはたしかにそういう力があるんだと思う。

 

神というものが人智を越えた存在であると定義するならば、自然を取り入れた安藤忠雄の教会に神を感じるのは理屈の通ったことだ。

 

人間は自然をなんとか味方にしようとしてきて、それでも思い通りになんてならないから畏怖を抱いて、神(の意志)だとか、そういうものに自然を変換して受け入れてきたんじゃないか?

 

つまり、神とは自然だったのか。

 

こんなことを言ったら夜道で後ろから刺されそうだけど、私は 光の教会でそんなことを考えた。

 

 

 

安藤忠雄の建築は、教会との親和性が高い。それは、安藤忠雄の建築に対する思想が宗教の根源と繋がっているからなのだと思う。私たちは安藤忠雄の建築で、改めて自然の持つ崇高さを体感せしめられるのだ。それは天気を予報できるようになった私たち人間が日常で忘れ去っている感覚である。

 

 

 

おしまい。