青木ケ原樹海と私について

 母が山梨に来た。

 一人暮らしを始めてからマザコンをこじらせているので、どうしても山梨に来て欲しかった私はぶどう狩りという名目で母を誘ったのだった。

 

 山梨は東京から近く、日帰りで行けることから私も幼い頃によく訪れていた。私と山梨の思い出は今住んでいることを除けば、幼い頃のぶどう狩りと、最近のものでも夏に開催されるフェスくらいだ。

 

 しかし母と姉は山梨に対してより深い思い入れがある。

 

 それは、私の母と姉がフジファブリックというバンドの大ファンだからである。 フジファブリックのフロントマンであった故・志村正彦の生誕の地が山梨県富士吉田市であり、この地はまた同時に彼が眠る地でもあるのだ。

 

 もちろん私もフジファブリックが大好きであるが、それは志村正彦フジファブリックであって、いまのフジファブリックは正直あまり聞いていない。(それでも好きな曲はある。)

 母と姉に関してはそうではなく、いまのフジファブリックのことも愛しているし、足繁くライブに通っている。

 

 そういうわけで、今回の母の山梨滞在でも富士吉田市を訪れることになった。

 富士吉田市では北口本宮冨士浅間神社や新倉富士浅間神社、忠霊塔、道の駅富士吉田などを訪れ、志村正彦の墓に手を合わせてきたのだが、それは今回の記事で言いたいことではない。

 

 今回ブログを書こうと思い至ったのは、富士吉田に向かう道中で、青木ケ原樹海を通ったからだ。

 

 私はいつ、青木ケ原樹海のことを知ったのだろう。いつの間にかそこが自殺の名所であることを知っていた。

 

 自殺はダメだなんて、小学生でも知っていることだけど、思えば私は小学生の時から死にたかった。そして中学生くらいの時には、青木ケ原樹海への行き方を調べていたように思う。

 

 東京に住んでいた時、青木ケ原樹海は行けなくはないけれど現実的には行くのが難しい場所だった。電車を乗り継いで、バスに乗ってやっと行ける場所で、お金も4000円弱かかる場所だった。

 死にたくなって青木ケ原樹海への行き方を調べても、所持金が4000円すら無かったから諦めたこともある。

 

 あの頃の私にとって、青木ケ原樹海は、自殺をすることと同じくらい近くて遠かった。

 

 しかし今日、驚くほど呆気なく、青木ケ原樹海にたどり着いてしまった。自分でも気づかないうちに、青木ケ原樹海の中の道を車で走っていた。

 

 なんだ、来れてしまったじゃないか。

 

 

 拍子抜けしたというよりも、驚いたというよりも、救われた気がした。

 

 青木ケ原樹海に辿り着けたことで、私はもう死ななくていいと思った。

 死にたかったのはいつも自分だけれど、それでも死にたくはなくて、でも死にたいほどに辛かったあの時の自分が救われた気がした。

 

 それほどまでに青木ケ原樹海はふつうだった。何も意識していなくても、ただ目的地への通過点で通るようなところだった。

 

 青木ケ原樹海が終わりではなかった。ゴールでも、どん詰まりでもなかった。

 そこはただ、ほかの場所と同じように地続きにあった。特別なことをしなくても来れた。

 

 

 最近は死ぬよりつらいことが分かるようになった。以前までは死ぬことが全てだったけれど。

 

 これは大人になったということなんだろうか、感性を失ってしまったのだろうか。だんだんと、太宰の気持ちがわからなくなるのだろうか。

 

 それもそれで怖いことだと思う。死にたがりの私は、いつかどこかに消えてしまうのだろうか。