ボヘミアン・ラプソディと私と音楽

 

今話題のボヘミアン・ラプソディをみた。

控えめに言ってサイコーだった。いやもうサイコーなんて言葉よりもサイコーだった。

 

 

(あまりにサイコーすぎて長文のブログが出来てしまいました。めちゃくちゃネタバレ含めて語りたいと思います。)

 

 

ボヘミアン・ラプソディをみた多くの若い人がそうであるように、私も映画が公開されるまで、全くQueenに触れたことがなかった。

強いていえば高校時代の同級生がそれはもう熱心なQueenファンで、文化祭のステージでフレディの真似をしていたのを見たぐらいだ。

 

本当に正直なことを言えば、私はQueen、というよりもフレディ・マーキュリーという人に対して多大な偏見を持っていた。

それは幼い頃からQueenの映像がテレビで流れる度に、最も身近な人が「フレディは見た目がゲイっぽすぎる」と批判的なご意見をのたまっていたせいだと思う。

 

つまり、私の中でフレディ・マーキュリー

「カリスマバンドのゲイっぽい見た目のゲイ」

というイメージでしかなかった。

 

ところがボヘミアン・ラプソディが大ヒットして、街中でQueenの音楽がよくかかるようになった。

知人友人がボヘミアン・ラプソディを勧めてきた。

そして極めつけは、先日購入した(!)中古車のaudioの中に、Made In Heavenが入っていた。

 

こうして私は少しずつボヘミアン・ラプソディに近づいて、そうしてついに観てきたというわけだ。

 

ググると史実と内容が合わなかったりするんだけれど、それは些細なことだと思う。

あの映画が描きたかったのは、フレディ・マーキュリーという人の孤独とその運命なのだから、それがいちばん効果的に魅せられるように順番を入れ替えただけのことだ。

 

そう考えると、あの映画の構成は本当にすごい。

私は最後のライブエイドを観に行ったと言っても過言ではないのだけど、あの映画のライブエイドはそれまでのストーリーによって補完されている故にあそこまでの感動を呼び起こすのだ。

 

Queenというバンド、そして何よりフレディ・マーキュリーの孤独を嫌という程わからされて、まるで昔からのファンのような気持ちでライブエイドのパフォーマンスが観られる。そうすると、音楽はただのそれ以上に響いてくる。

 

だからこそ、このヒットでしょう。Queenを全く知らなかった私のような人間も、Queenを知った気になれるのだから。

 

 

 

フレディ・マーキュリーの孤独について考える。

 

孤独とは、言うまでもなくひとりぼっちであるということなのだが、あの映画におけるフレディの孤独の場合は、フレディを真に理解する人がいなかったことだと思う。

彼は、生まれの面においても、性的指向の面においても、その才能においても、他人と違ってしまった。マイノリティだった。

 

いや、ここまで書いて思ったのだけど、たぶんそういったことは、彼の孤独の一面にすぎない。

彼の孤独は、それよりも、彼が満たされない器を持っていたから引き起こされた。

 

彼の周りの人が、彼を受け入れていなかった訳ではない。メアリーにしろ、Queenのメンバーにしろ、フレディのことを愛していた。けれどフレディの器は満たされなかった。

 

満たされない器を抱えて、満たしてくれるものを求めて、大きな家を買ってみたり、盛大なパーティを開いてみたり、ドラッグでぶっとんでみたり、性行為という擬似的な愛に溺れてみたりしたのだ。

そんなことで器は満たされる訳では無いことは、映画の外にいる我々からすれば当たり前のことなのだが、当事者というのはわからないものだし、それ故にフレディは足掻いて足掻いて、そうして心身ともに傷つき、疲弊し、器は空っぽになる。

 

そこであの、雨のシーンがくるのだ。

 

メアリーとメンバーとジムによって器は再び満たされ始めて、そうして最終的に、ライブエイドという場の音楽によって器は完全に満たされる。

 

鑑賞者たる我々は、音楽によるカタルシスを得る。

 

 

 

例えばフレディの孤独が、よくあって分かりやすい、周囲の人の裏切りによって引き起こされるものであったのなら、この映画はここまで素晴らしいものとはならなかったと思う。

 

満たされない器は誰もが持つもので、それによる孤独は誰もが経験しうるものだからこそ、フレディの孤独が痛いほど身に沁みるのだ。

 

 

 

 

 

随分長くなってしまっているが、最後にボヘミアン・ラプソディをみた多くの人がやっているであろう自分語りをしたい。

 

ボヘミアン・ラプソディは音楽の気持ちよさ、素晴らしさ、人生での必要さを思い出させてくれた。

 

私は高校生ではおやつを我慢してCDを買ったり、毎月ライブに行ったりするような音楽小僧だったのだが、大学生以降年に数回行くか行かないかとなり、音楽から足が遠のいていた。

 

最近もiTunesや通販で音源を手に入れているものの、前回ライブに行ったのはたしか6月だ。

 

仕事と住んでいる場所の都合でライブに行けないこともあるけれど、悲しいかな、高校生の時のように音楽にのめり込むことが少なくなったと言わざるを得ない。

 

ところがボヘミアン・ラプソディを観てからというものの、買ったボヘミアン・ラプソディのサントラと、マイ・カーの中のMade In Heavenを隙あらば聴いている。

 

もうQueenのライブが開催されないことが虚しくて仕方ない。

フレディ・マーキュリーがこの世にいないことがこんなにも悲しい。

 

それもこれも、ボヘミアン・ラプソディでライブエイドの気持ちよさを味わってしまったからだ。音楽はサイコーだと思わされたからだ。

 

嗚呼、あの頃の私はこの気持ちよさ、解放感を求めていたな。そしてそれは今の私にも必要だな。

そう思った。

 

ベースやバスドラムのお腹に響く低音と、歪むギターが奏でる気持ちよさ、そして沁み渡るボーカルの歌声と歌詞。人々の熱気と熱量に囲まれながら、私もまた熱に浮かされて心が解放される感覚は、やはりライブでしか味わえなくて、それは何物にも変え難いのだと。

 

 

人生はルーティーンだ。朝起きて、仕事をして、ご飯を食べて、風呂に入って寝るというルーティーン。

 

ルーティーンは生きるために大切だけど、窮屈極まりなくて、2日に1回はいつまでこれが続くのかと絶望する。

 

そんな中で、素晴らしい音楽を全身に浴びて、身体を揺らして、日頃の鬱憤すべてどうでも良くなることがどれだけ大切なのか。必要なのか。

 

人生は短い。呆気なく終わることもある。そんな中で、ルーティーンばかりにかまけて、音楽による素敵な体験を逃してばかりいるのは、私の人生ではないなと思った。

 

 

 

本当に長々と書いてしまったけれど、兎に角みんなボヘミアン・ラプソディを観ようということと、音楽は素晴らしくて人生に必要不可欠なんだってことが言いたかっただけです。

 

 

ここまで読んでくれた方がいらっしゃったら、本当にありがとうございました。