魂の話

 人には得手不得手がある。といえば、誰もが納得することなのだけど、この得手不得手というのはいうほど簡単な問題ではないと思うんだ。

 

 たとえば人付き合い。これは得手不得手が深刻になるもののひとつだと思う。ただこの人付き合いが不得手の中にも、より深刻な、魂の性質的に他人との関わりが持てない人というのが存在するのだと思っている。そして私も例外なくそうだ。

 

 じゃあ私に友達がいなくて寂しいやつなのかというと、実際はそうではない。少なくない数の友達がいて、みんなが私に親切にしてくれる。そういう友達を持てているという事実は本当に有難いことだと思う。

 

  じゃあお前は他人との関わりを持てない魂ではないじゃないか、と思われるかもしれないけど、それはちょっと違う。私は他人と関わることが嫌いになれないだけなのであって、魂は他人との交流によって削られている。頭の中で次の言葉と次の行動を考え実行し、他人の話をインストールした上でアウトプットを試みる。意識しなくてもみんながやっている行為ではあるが、私はこれに体力を必要以上に持っていかれるタイプの人間なのだ。

 

 これは言われれば私もそうだという人が多いと思うし、なんなら全人類みんなそうなのかもしれない。しかし他人とのかかわり合いの中で魂を削らずにはいられない人間は、実はそんな多くないのだと思う。

 

もうひとつ私の魂の話をすると、私の魂は非常に疲れやすい。他人とのかかわり合いというのは何も言葉を交わすことではなく、自分以外の人間が存在する場所にいることが苦痛であるということだ。そしてこの疲れやすい魂は更に脆く傷つきやすく、そして再生に時間のかかるものである。

 

 再生のためには魂の栄養を摂取するか、あるいは長時間の休養が必須になる。目に見えない魂の傷は、まずどの地点にあるのか触診せねばならない。それをうっかり抉ってしまうと、さらに再生は遅くなる。

 

 魂は人によって形も性質も何もかもが違って、指紋のように誰1人同じものを持つことはない。私より深刻な性質の魂の人もたくさんいる。ただもしその性質を二分するのなら、強固な魂と脆弱な魂にしたい。

 

強固な魂を持つ人たちは、魂が強固な状態が当たり前なのであり、魂の回復も早い。柔軟で、傷つきにくく、再生力に優れた魂は、脆弱な魂の気持ちがわからない。

 

 強固な魂の人々は、脆弱な魂の人々を、それは怠慢なのだ、怠惰なのだと責め立て、かつその人のためを思って言ってあげているのだと、それは迷惑な恩着せがましい言葉を平気で吐いてくる。なんという傲慢、なんという驕りだろう。

 

 それは許されない蛮行であるのに、世間はそれを黙認し、かつそれが正しいことなのだと、美徳なのだと位置づけてしまい、脆弱な魂はそれらからなるべく傷つかないように代わりとして肉体を傷つけるのだ。

 

脆弱な魂は確かに褒められるものではないのかもしれない。しかしだからといって、蔑まれるものではないはずなのだ。

 

人は他人のことがわからない。魂は目で見ることが出来ないから、お互いに探りあって魂をみる。

 

疲れやすい魂を持つ生きづらさは、理解を受けない苦しみとも戦わなければならない。