私は文章を書くのがちょっと得意なのかもしれない

ブログかくかく詐欺師です、こんばんは。

ずっとブログを書くぞとTwitterで言っていたくせに記事として上げるのは9ヶ月ぶりという詐欺師。

 

さて、今日のタイトルは「私は文章を書くのがちょっと得意なのかもしれない」。

もちろん世の中にはもっと得意な人がいるのだろうが、私も「ちょっと得意なのかもしれない」と、今日ふと思ったのだ。

 

文章はつまることろ訓練によって上達する。これは大前提だ。

自分の考え、空想、妄想等の内なるものを言語化して外に出す作業は、訓練を行えば行うほどにうまくなる。

ただしこれには条件があり、それは他人に読まれるフィールドで一定のまとまった分量があるということだ。つまり自分しか読まない日記やSNSでは訓練にはならない。

 

話し言葉と書き言葉という概念があるが、新入社員の書く文章を見ていると、それが出来ていない子のなんと多いことか!

社会人になる前の就職活動の時も、大学の友人のESを添削していた時に、「何故こんなに読みにくい文章を書くのか?」と思った。

 

では何故、私はちょっと得意なのかもしれないのか?

 

文学部でインプット量が多かったからというのもあるだろうが、文章上達はアウトプットをしなければ始まらない。

 

私のアウトプットの原体験は、小説を書くことであった。

 

小学生で本を読み始めた頃、同時に気に入った本のパクリとも言えるような物語を書いていた。

仲の良い友人が好きすぎて、彼女の真似ばかりしていた頃だ。

それから中学生頃までよく小説を書いていた。

原稿用紙に書いたり、ノートに書いたり、ガラケーに書いていたり。

見切り発車で完結のしない物語を何個も量産しては、将来は小説家になりたいなどと言っていた。

 

高校生になって、殆ど書かなくなっていたけれど、相変わらず見切り発車の物語を書いていた他、ブログを始めた。

殆ど黒歴史の内容で思い出したくもないけれど、ライブレポ等は読みやすいという嬉しい言葉をもらったこともある。

 

大学生ではレポートの数が多く、小説を書いたりブログを書いたりということは殆どしていなかったが、このブログも始まりは大学生の頃である。

 

つまるところ私は、他人より文章を書きながら生きてきた。

無邪気に褒める無知な人が、私に「文章力を生かせる仕事を」などと言ってくることがあるが、小説家の夢を手放し、ライターの夢をやめた私には言葉の暴力ですらある。

 

でもそうやって訓練してきた日々は裏切らないのだ。

 

だから私は、小説家になれなかった自分を認めてあげて、「私は文章を書くのがちょっと得意なのかもしれない」とこうして記事を書くのだ。