24年間自分のことを好きになってくれる人が現れなかった

 

このブログは自分の経験とか、言葉に出来なかったもやもやを言葉にすることで血肉にしていくためにあるので、今日は私のこれまでの人生で最も大きなコンプレックスであるものについて書きたい。

 

これを読んでくれているあなたには、自分のことを恋愛の意味で好きになってくれた人はいますか。

現在進行形でいる人も、過去にいた人もいると思います。

いたことない人、この記事はあなたに向けて書きます。

 

タイトルの通り、私には24年間私のことを恋愛の意味で好きになってくれる人がいなかった。

小学校は公立、中高は私立女子校、大学は私立共学という環境で育った。

よく友人からは、「中高女子校だったなら仕方ない」「これから出来るよ」という慰めの言葉を貰っていたけれども、同じ高校生の時に彼氏がいた子は存在したし、大抵の同級生は4年間の大学の間に彼氏が出来ていた。

彼氏がいなくても、大学に入った途端、友人から異性との恋愛相談が増えた。

私も恋をしていたけれど、それは私の気持ちの問題であって、相手から告白されたこともなければ、私のことを好きになってくれる人がいたこともなかった。

 

「彼氏欲しくないの?」という質問はよく聞かれた。

「欲しいに決まっている」と毎回答えた。

 

春は新しい出会いに期待をした。

夏は何かが起こるかもしれない期待をした。

秋は肌寒さに寂しくなった。

冬はイベントのある度に孤独を感じた。

 

毎年、そうやって過ごしていた。

 

友人には恵まれている。これは今も昔も変わらず、私の愛する友人たちは誰も彼もが尊敬の出来る素晴らしい人たちだ。

人間関係の徳と運は、友人に全てを使っていると言われたら納得してしまう自分もいる。

 

私はずっと、「周りと同じようにふつうに生きているつもりなのに、どうして自分のことを好きになってくれる人はいないのだろう」「やっぱり人格のどこかに欠陥があるのだろう」「そういう需要は自分にはこれから一生ないんだろう」と思っていた。

いや、正確には今でも思っている。

 

恋愛なんてなくても、結婚なんてしなくても、人生は続けることが出来るし、現代は未婚率も高くて珍しいことじゃないけれど、私が思い悩むポイントは彼氏がいないということよりも、自分に恋愛的な意味での需要が皆無であるということだったと思う。

 

自分が好きじゃない人に好かれても意味は無い、その言い分はわかるけれど、自分が好きじゃない人にすら好かれない私はなんなんだ?と思う。

 

恋愛はしなくても生きていけるけれど、人間の営みの中で、社会の中で、恋愛というカテゴリーは確実に存在するのに、それを選ばないのではなく、そもそも選択の土俵にすら上がれない自分を、肯定出来るはずもないのだ。

 

恋愛というカテゴリーの中でだけ、自分が透明人間になった気分がしていた。

人混みの中で、誰も私に気づいていないような気分が永遠に続いていた。

それは寂しさとか侘しさとか、そういったものよりもっと深く、絶望するには希望に縋りたくなり、だがしかし蜘蛛の糸すら見えず、出来ることは自己否定のみだった。

 

その状態の納得をするには、己を否定しなくてはならなかった。

 

私が、他の人より劣っているのだと。

人間として欠落した部分があるのだと。

 

この思考は、いくら他人から「そんなことはない」「いつかきっと良い人が見つかる」「自分が男だったら好きになっている」などの慰めを受けたとしても、何も響かないほど深く暗いものだった。

 

人は、それぞれに悩みと思考があって、私のこの考えを軽く笑える人もいるし、同じような思考に苦しめられている人もいるし、自分の悩みの方がずっとつらいと考える人もいるだろう。

 

 

24歳と2ヶ月、自分のことを好きになってくれる人が生きていて初めて現れました。

それで分かったことは、この孤独と否定は、一生つきまとう呪いなんだということ。

 

「24年間自分のことを好きになってくれる人が現れなかった」

 

そういう呪いが、自己否定が、この先のいつまで続くかわからない人生でずっと付きまとってくる。

この先何人好きになってくれる人が現れても、現れなかった24年間という過去の事実は変えられずに、その否定をやめられないのだろう。

 

この呪いをポジティブに変えよう!等と言うつもりは一切ない。

一度現れたからといって、この呪いが消えることはない。

むしろ今回の一度の奇跡が、本当に人生で最後になるかもしれないと思う。

 

「そんなわけない、また現れるよ」と友人たちは笑い飛ばす。それは私の呪いを知らないから。

 

友人たちを否定したいわけでは決してない。

むしろそう言ってくれるということはそういう風に見られているということで、むしろ安心をしているので感謝の念がある。

 

でもこれは私の思考の問題で、どうすれば呪いが解けるのかわからないまま、ただ呪いと向き合って生きていくしかないのだと思う。

 

 

おわり。