寝れない
寝れないので2ヶ月ぶりにブログを書こうと思う。
いや今気づいたけど2ヶ月ぶりって。
もっと書いている気になっていた。
いつもTwitterで済ませてるからブログをあまり書かないけど、色色書きたいことがあったような気がする。というか実際、書きかけの記事が下書きにたくさんある。長い文章を書くって中々時間のかかる作業なんだよなあ。
だからライブのレポとか書こうにもその熱量の維持が難しくてなかなか書けない。半分まで書いたけどその先続かないなんてよくある。
昔、高校生くらいの時は結構詳細なライブレポを書いたりしてたなあ。私のライブレポが好きだと言ってくれたのは誰だったっけ?お元気ですか。私はまあぼちぼち生きてます。
この前の石川旅行のことも記録も兼ねて言語化しようとは思っているけど、言葉にした瞬間にあの楽しさは消えてしまう気がしてね。というか、2年前のロンドンもそうだけど旅行のこと書くのわりと大変だ。でも書いておかないと忘れるなあというのを今日実感した。
私は金沢行ったのこの前が人生初だと思っていたら、実は小学生で行っていたらしい。全く覚えていない。それを思い出すためにアルバムの写真を探したんだけど、出てくる小学生の頃の自分が無邪気すぎてビックリした。カメラに向かってピースをしてるのは自分が愛されているのが当たり前とでも思ってるかのような明るさを持つ少女だった。
でもそれもその筈なのかもしれない。私はあれから本当に色々なことを経験した。
中学受験、中高での彼是、大学受験、就職活動etc..
私の記憶の中では、幼い頃はひたすら両親とかから可愛い可愛いと言われていた気がする。可愛いと言われて愛されている子供の自信は最強だよね。そこから外に出た時に散々ブスと言われてきたのでこの様なひねくれに育ってしまったけど。
でも私の性格は中高生までは何かと一貫してた気がする。大学生になって、アイデンティティの崩壊が起きてからその性格が全くわからなくなってしまったけど、もっと自分が好きだった気がする。いや、そんなこともないんだろうか?折角ずっとブログとかTwitterをやっていたのに、ことある事に消してしまうので余計に自分が分からないんだよなあ。
SNSを消すのはイコール過去の消去に伴う自己の消去だと思う。というか、自分の存在を自分で消してしまいたい時にいつも消してしまう。
こういう、死にたがりとか消えたがりの性格はいつまで続くんだろう。今までも性格がこんなに変わってきているし、今後ふつうに生きられたらまだ人生が60年もあって、まあ絶望するんだけども、それに耐えられるくらい図太くなるのかしら。自己肯定感を少しでも持てるのかしら。
そろそろ眠くなってきたので寝よう。
今年の振り返りと来年の目標を年内に更新したいな
安藤忠雄展
乃木坂駅に着いたのは午後3時半。本当は朝に行こうかとか、夕方の方が光の教会に光が刺すらしいとか、色々考えていたけど時間の都合でそうなった。
目当ては光の教会実寸大再現。正直私は建築に明るくないし、安藤忠雄展を見に行く予定も1週間前、つまりTwitterでその光の教会の再現の写真を見るその瞬間まではなかった。
そしてこれが私の撮った光の教会。
前にいるポケモンのバッグがちょっとシュールだなと思う。
安藤忠雄はシンプルな造形に光や風、水などの自然が映し出されることを理想の建築としているらしい。光の教会は中央の十字架部分にも右側の隙間にもガラスすらなく、屋内にいながら光はもちろん、風も感じられる。建設当時は信者からの反対でガラスがあったそうで、「いつか取ってやると思った」とイヤホンガイドで安藤忠雄は言っていた。
こちらはポストカードを撮ったものだけど、水の教会。
私はこれらを見て、美しいとかそういう感想の前に、その十字架の前に跪きたくなった。祈りを捧げたくなった。私はキリスト教信者ではないけれど、これらの教会にはたしかにそういう力があるんだと思う。
神というものが人智を越えた存在であると定義するならば、自然を取り入れた安藤忠雄の教会に神を感じるのは理屈の通ったことだ。
人間は自然をなんとか味方にしようとしてきて、それでも思い通りになんてならないから畏怖を抱いて、神(の意志)だとか、そういうものに自然を変換して受け入れてきたんじゃないか?
つまり、神とは自然だったのか。
こんなことを言ったら夜道で後ろから刺されそうだけど、私は 光の教会でそんなことを考えた。
安藤忠雄の建築は、教会との親和性が高い。それは、安藤忠雄の建築に対する思想が宗教の根源と繋がっているからなのだと思う。私たちは安藤忠雄の建築で、改めて自然の持つ崇高さを体感せしめられるのだ。それは天気を予報できるようになった私たち人間が日常で忘れ去っている感覚である。
おしまい。
チョウとハナ
世の中の人には2つのタイプがあって、それが「チョウ」と「ハナ」。つまり愛されるために自分から探しにいかなければならないチョウとただ在るだけで愛される才能があるハナだ。
私は完全にチョウのタイプなので愛されるために愛を発信しなければならなかった。
中学の時に、いまでは魂の片割れのような存在の友人と壮絶に喧嘩していた。周りを巻き込み、部内で派閥争いにもなったほどだ。
しかしながらそうやって喧嘩をしていても、私は彼女のことが好きだった。口を聞かなくてもいつかまた仲良くなれると信じきっていた。彼女は私と同じチョウだから、多少の衝突は避けられないのだと自分に言い聞かせていた。
チョウとハナは互いに惹かれあって一度結ばれればその絆は確固たるものになるだろう。しかしながらチョウとハナはそれぞれの立場の違いによって真に理解し合えることはない。
一方でチョウとチョウはそもそも惹かれ合うことなど無いに等しい。しかしながらもしその壁を越えられることが出来たなら、真に理解し合えるのはチョウとチョウなのかもしれない。
眠れない夜
眠れないことに焦燥感を抱くことはよくあると思う。翌日の予定を考えると寝なきゃいけないのにと無駄に焦る。焦るから眠れないのに。
大学4年の夏休みは、その眠れない夜と同じような焦りを毎日感じている。 学生の終わりは唐突だ。私の学生としての人生は、果たしてこれで良かったのだろうか。やり残したことはないか?やるべきことはないか。社会に出ることへの不安が日に日に募る。
学生は贅沢だ。ぐうたら過ごしても問題のない日が続き、勉強は義務ではあるが強制ではない。やりたいと思ったことは都合が付けば大体のことが出来る。
社会へ出るとなって、改めて文学の贅沢さを感じる。もうあと4か月後には卒業論文を提出しているなんて、一体どうしたら想像できるのだろう。言葉は並べられても、それが実感出来ない。
本当に馬鹿な考えだと思うが、私のこれまでの人生は文学ありきだった。文学のない日常が、私にはわからない。誰かの紡いだ言葉の塊が文学だとして、私はそこから情報を読み取り価値を付けることをしてきた。その能力が他に生かせたらいいのに、これはやらなくなった途端に衰える種類のものだ。
もっと本を読めるうちに読まなきゃだとか、知識を蓄えなきゃという、焦りばかりで努力をしない。そうして半年がすぎて、私はいつの間にか社会人になって、もう文学とは無縁の生活をするのだろう。
そうして荒んだ人間になるのかもしれない。そうなったらどうしよう?
つまり私は文学至上主義すぎて、それに関わりのなくなる自分に耐えられないのかもしれない。
就活の願掛けで髪の毛を伸ばしている話。
タイトルの通り、就活の願掛けで髪の毛を伸ばしている。
初めはショートカットよりも髪の毛を結んで就活をしたいという思いから伸ばし始めた。たしか去年の冬のはじめくらいだったと思う。
これは願掛けにしようと決意した、というよりも、気づいたらこれが願掛けになっていた、と言った方がしっくりくる。なんとなく就活が終わるまで切るのはやめよう(整えるのは除いて)と伸ばし始めた時から思っていて、この前ふと、あっこれって願掛けなんじゃあないかと思った。
そう意識すると、段々長くなっていく髪の毛が煩わしくなると同時に、早く就活を終わらせたい気持ちと、願掛けをしている自分に酔う気持ちがムクムクと湧いて湧いて、こんなブログにまでしたためている。
私は基本的に神様を実態として信じていないのだけど、人間の思念の象徴、あるいは自然への畏怖として神様を信じている。つまるところ何かにすがりたい気分の時以外は神様を意識することなんてないし、願掛けなんてミサンガを作ったくらい(おまけに結局自然に切れる前に自分で切った)。
そんな私が、何故か髪の毛を伸ばすという願掛けをしている。自分で面白いと思う。
いま、髪の毛は肩甲骨くらいの長さで、これは人生の中で2番目に長い。ショートカットの方が毎日便利だし、実際似合っていると思うのだけど、ここまで来るとこの願掛け、成就するまでやめられないなあと思う。
上手く行けば来週には終わるはずだったのだけど、実際上手くいっていないので、おそらく今月いっぱいはまだ髪は切れないだろう。
魂の話
人には得手不得手がある。といえば、誰もが納得することなのだけど、この得手不得手というのはいうほど簡単な問題ではないと思うんだ。
たとえば人付き合い。これは得手不得手が深刻になるもののひとつだと思う。ただこの人付き合いが不得手の中にも、より深刻な、魂の性質的に他人との関わりが持てない人というのが存在するのだと思っている。そして私も例外なくそうだ。
じゃあ私に友達がいなくて寂しいやつなのかというと、実際はそうではない。少なくない数の友達がいて、みんなが私に親切にしてくれる。そういう友達を持てているという事実は本当に有難いことだと思う。
じゃあお前は他人との関わりを持てない魂ではないじゃないか、と思われるかもしれないけど、それはちょっと違う。私は他人と関わることが嫌いになれないだけなのであって、魂は他人との交流によって削られている。頭の中で次の言葉と次の行動を考え実行し、他人の話をインストールした上でアウトプットを試みる。意識しなくてもみんながやっている行為ではあるが、私はこれに体力を必要以上に持っていかれるタイプの人間なのだ。
これは言われれば私もそうだという人が多いと思うし、なんなら全人類みんなそうなのかもしれない。しかし他人とのかかわり合いの中で魂を削らずにはいられない人間は、実はそんな多くないのだと思う。
もうひとつ私の魂の話をすると、私の魂は非常に疲れやすい。他人とのかかわり合いというのは何も言葉を交わすことではなく、自分以外の人間が存在する場所にいることが苦痛であるということだ。そしてこの疲れやすい魂は更に脆く傷つきやすく、そして再生に時間のかかるものである。
再生のためには魂の栄養を摂取するか、あるいは長時間の休養が必須になる。目に見えない魂の傷は、まずどの地点にあるのか触診せねばならない。それをうっかり抉ってしまうと、さらに再生は遅くなる。
魂は人によって形も性質も何もかもが違って、指紋のように誰1人同じものを持つことはない。私より深刻な性質の魂の人もたくさんいる。ただもしその性質を二分するのなら、強固な魂と脆弱な魂にしたい。
強固な魂を持つ人たちは、魂が強固な状態が当たり前なのであり、魂の回復も早い。柔軟で、傷つきにくく、再生力に優れた魂は、脆弱な魂の気持ちがわからない。
強固な魂の人々は、脆弱な魂の人々を、それは怠慢なのだ、怠惰なのだと責め立て、かつその人のためを思って言ってあげているのだと、それは迷惑な恩着せがましい言葉を平気で吐いてくる。なんという傲慢、なんという驕りだろう。
それは許されない蛮行であるのに、世間はそれを黙認し、かつそれが正しいことなのだと、美徳なのだと位置づけてしまい、脆弱な魂はそれらからなるべく傷つかないように代わりとして肉体を傷つけるのだ。
脆弱な魂は確かに褒められるものではないのかもしれない。しかしだからといって、蔑まれるものではないはずなのだ。
人は他人のことがわからない。魂は目で見ることが出来ないから、お互いに探りあって魂をみる。
疲れやすい魂を持つ生きづらさは、理解を受けない苦しみとも戦わなければならない。
2017年の目標
Tumblrで書いてたら全部消えたのに腹が立って、やっぱりはてなブログに書き残そうと思う。
①やらない後悔をしない
これは去年に引き続きの目標! 去年これを目標にしたことで満足のいく1年に出来たので、今年もこれは継続したいな。特に就活があるから、やれるだけのことをやりたい気持ちがあります。あと私は基本的に臆病だから何か新しいことをするのに躊躇う癖があるので、これを念頭におきたい。
②攻撃的にならない
これは結構何に対してもで、特に他人に対してっていうのを本当に、気をつけたい。他人に悪いからとかいう偽善者めいたことではなくて、他人に対して攻撃的な気持ちになって口だけで悪意をはいてしまうと後で自分が後悔するのでね。ユーリon ICEのユリオがアガペーに気づいた瞬間みたいに、ストンと落ち着きたいです。つまりは穏やかに過ごしたいってことになるのかな?
③旅行に行く
これは就活と大学があるからだいぶ厳しいかもしれないけども。でもこの前に弾丸日帰りで京都行った時、意外とすぐ旅行できちゃうなってことがわかったので、またいっぱい色々行きたいな!とりあえず今行きたいと思ってる土地は金沢です。あと海外ならインドネシア行きたいな〜〜〜!せめて金沢は行こうと思います。
④新しいことをはじめる
まだ全然何を始めるか検討もついてないんだけど、できたら日本伝統文化に関係あることがいいなと思ってる。就職しても変わらない何かが欲しいなということです。
⑤思いっきり勉強する
わりとこれが1番大事だと思う。いよいよ今年は4年生になっちゃって、高校生の時ずっとやりたかった文学の勉強が出来るのもあと1年ないと思うと悲しいなあ。高校生だった私も、社会人になった未来の私も満足するぐらい、最後にちゃんと勉強したいと思います。幸い先生に課題を貰っていることだし、まずはそれを頑張ります。
こんなもんかな!去年よりなんかしっかりした(?)目標になった気がする。卒業も就活もあって想像するだけで不安になる1年だけど、今年も大きな病気なく健やかに過ごせたらいいなと思います。
来年の今頃笑っていられますように!!